なめていた私のダブルケア 第1話
ー子育てと在宅介護が同時に始まった、私のダブルケアの記録ー
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私は小さい頃、両親が共働きで、祖母に育てられた時間が長かった。
祖母は毎日のように家に来てくれていた。
両親が甘い分、祖母は厳しかった。
あいさつやお礼の言い方。
りんごを切りながら分数を教えてくれた。
排水溝の掃除の仕方。
玄関の鍵を回しながら、右と左を教えてくれたことも覚えている。
体で覚えるようなことを、たくさん教わった。
高校、大学へ進むころ、祖母が少しずつ変わっていくのは分かっていた。
同じ話を繰り返すようになった。
きっと、さみしかったのだと思う。
でも私は、学生生活が楽しかった。
厳しかった祖母と何を話せばいいのか分からず、
「めんどくさい」が勝ってしまった。
正月くらいしか会わなくなった。
その事実は、どこかにずっと残っていた。
だから、できるなら介護はしたいと思った。
祖母孝行というより、
自分の中の何かを回収したい気持ちに近かったかもしれない。
でも、もっと強い基準があった。
「子どもが幸せでなくなるなら、介護はやらない。」
私は最初から、子ども軸で考えた。
子どもが大切ということは、
自分が壊れないことも含まれている。
子どもに我慢をさせるなら。
自分が潰れるなら。
そのときは手放す。
きれいごとではなく、
介護の負担と生活の現実を、天秤にかけていた。
祖母の年金は、私たちの生活にとって小さくなかった。
育児にお金がかかる時期、精神的な余裕をくれた。
働き方を時短に変え、パートに切り替えられたのも、
その支えがあったからだ。
感謝と現実は、同時に存在している。
第3子を妊娠し産休に入った直後、
祖母が脳梗塞で入院した。
主治医も、ケアマネも、親族も、夫も言った。
「もう施設だろう。」
看護師の私は、分かっていた。
これは区切りでもおかしくない、と。
もし患者家族が私の立場なら、
きっとこう言う。
「もうタイミングですよ。よく頑張ったと思います。」
実際、入院先にも転院先にも同僚がいて、
みんなが言った。
「もうやめな。」
正論だった。
でも、孫の私は迷っていた。
子どもたちは言った。
「ばあちゃん、いつ帰ってくるの?」
「帰ってきてほしい。」
私は、自宅退院を選んだ。
やり切りたい気持ちもあった。
子どもたちが祖母のベッドで跳ねたり、
車椅子に一緒に乗ったり、
祖母に抱きついて困らせたりしている姿を見ると、
不思議と、心が穏やかになる。
在宅介護を選んだことが正しかったのかは、
きっと最後まで分からない。
ただ私は、
「子どもが幸せでなくなるなら、介護はやらない。」
この基準でここまでやってきた。
介護が始まった背景には、生活の選択もあった。
恩も、打算もあった。
ここから、今までのことを少しずつ書いていこうと思う。
この記事は「なめていた私のダブルケア」第1話です。
第2話▶
2|利点しかないと思っていた同居
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