1|子どもが幸せでなくなるなら、介護はやらないと思っていた

ダブルケア体験記 なめていた私のダブルケア【体験記】

なめていた私のダブルケア 第1話
ー子育てと在宅介護が同時に始まった、私のダブルケア7年の記録ー
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私は、看護師として10年以上働いている。
だから認知症も、脳梗塞も、在宅介護の大変さも、知っているつもりでいた。

でも、本当の大変さを何も分かっていなかった。

祖母の在宅介護が始まって7年。子どもは3人に増え、祖母の要介護度は1から4になった。

介護することを考えたあの頃の私に会えるなら、こう言いたい。
「それ舐めているよ。」と。


私は小さい頃、両親が共働きで、祖母に育てられた時間が長かった。

祖母は毎日のように家に来てくれていた。

両親が甘い分、祖母は厳しかった。
あいさつやお礼の言い方。
りんごを切りながら分数を教えてくれた。
排水溝の掃除の仕方。
玄関の鍵を回しながら、右と左を教えてくれたことも覚えている。

高校、大学へ進むころ、祖母は少しずつ変わっていった。
同じ話を繰り返すようになった。
そのころから、認知症が始まっていたのかもしれない。

でも私は、学生生活が楽しかった。
元々厳しかった祖母と何を話せばいいのか分からず、
「めんどくさい」が勝ってしまった。

正月くらいしか会わなくなった。

その事実は、どこかにずっと残っていた。
だから、なにかできることがあればいいなとは思っていた。


でも、もっと強い基準があった。

「子どもが幸せでなくなるなら、介護はやらない。」

子どもが嫌な思いをするのなら。
自分が潰れるなら。
そのときは手放す。

きれいごとではなく、
介護の負担と生活の現実を、天秤にかけていた。

祖母の年金は、私たちの生活にとって小さくなかった。

このときの私は、自分ならなんとかできると思っていた。


しかし、その基準は、何度も試されることになる。

食べ続ける祖母を、止めなければならなかったとき。
妊娠中、祖母に優しくできなかったとき。
祖母が脳梗塞で倒れたとき。

「子どもが幸せでなくなるなら、介護はやらない。」
そう決めていたはずなのに、
私は何度も、このルールを試され、迷い、それでも祖母を選んできた。

介護を決めた背景には、恩も、打算もあった。

在宅介護をはじめて7年。
これから、介護をはじめたあの時のことを思い出してみようと思う。


この記事は「なめていた私のダブルケア」第1話です。

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