なめていた私のダブルケア 第2話
ー子育てと在宅介護が同時に始まった、私のダブルケアの記録ー
シリーズ一覧▶なめていた私のダブルケア
結婚して、第1子をお腹に授かったとき、家を建てたいと思った。
母に話すと、「祖母の家があるところに建て直したら?」と提案された。
駅に近く、土地も広い。立地は申し分なかった。
ひとり暮らしも心配だし、一緒に見てくれたら嬉しい。
それなら祖母の貯金を控除の範囲で使ってもいいと思う、とも言ってくれた。
夫とも話し合った。
利点しかない、と思った。
そのころの祖母は穏やかだった。
デイサービスに通い、家ではテレビを見て過ごす。
近所のスーパーでお惣菜を買い、洗濯も自分でする。
雨戸もきちんと閉める。
自分のことは、だいたい自分でできていた。
会話も成立していた。
同居についても「好きにすればいいよ。」と言ってくれた。
ただ、今まで住んでいた家がなくなると混乱するかもしれない、という不安はあった。
環境の変化で認知機能が落ちるかもしれない、と。
だから、できる限りのことはしようと思った。
祖母の部屋の間取りやトイレの位置関係を、できるだけ元の家に似せた。
建て壊しのあいだもデイサービスに通えるよう、ショートステイではなく、当時住んでいたアパートで一緒に暮らすことにした。
同居が始まる日は出産予定日1ヶ月後。
育休中で仕事はしていない。
時間はある。
育児もなんとかなると思っていた。
介護も、仕事で高齢者を見てきたからイメージできた。
今思えば、育児と介護を、少しずつなめていたのだと思う。
一緒に暮らし始めて、1〜2日で絶望的な気持ちになった。
「デイサービスはまだか?」
「今日は何日だ?」
スイッチが入ると、数分おきに同じ質問が続く。
答えても、また聞かれる。
分かりやすいようにホワイトボードに予定を書いた。
すると今度は、「ここにはこう書いてあるけど、合っているか?」と確認が始まる。
終わらなかった。
もともと時間に厳しい人だった。
人を待たせてはいけない、という思いが強いのだと思う。
デイサービスの時間が近づくと、そわそわし、何度も外を覗き、道に出て様子を見る。
玄関のドアを開けたまま。
それがいちばんつらかったのは、授乳中だった。
冬の冷たい空気が玄関から流れ込む。
私は服をめくったまま動けない。
赤ちゃんは離れない。
祖母は外に出ていく。
見守りセンサーをつけた。
でも昼夜問わず鳴る音に、私は眠れなくなった。
第1子もよく泣く子で、自分がまとまって眠れることはほとんどなかった。
1日で細切れに2時間眠れればいいほうだった。
赤ちゃん訪問で睡眠時間を聞かれ、
引っかかると面倒かもしれないと思って、少し多めに「3時間くらいですかね」と言った。
「少ないですね」と返されて、
あれ、これで少ないのか、とぼんやり思った。
たぶん、頭はあまり働いていなかった。
トイレの問題もあった。
トイレが臭くなった。
確認すると、使用後のトイレットペーパーがサニタリーボックスに入っている。
やめてもらおうとボックスを撤去すると、今度はリビングのゴミ箱に入る。
掃除道具入れの中に入っていたこともある。
張り紙を貼った。
それでも流すときもあれば、流さないときもある。
手を洗わないこともあった。
ペーパーの使用量が少ないことまで気になる自分がいた。
利点しかないと思っていた同居は、
思っていたよりずっと苦しかった。
不眠は、じわじわと人を壊す。
怒鳴ったわけではない。
暴れたわけでもない。
でも、頭の中は荒れていた。
「どうせ覚えていないんだから、後ろから蹴飛ばしても分からないんじゃないか」
夫と、本気でそんな話をしたことがある。
限界だった。
怒りの矛先は、母に向いた。
育児の大変さを知っているはずなのに、
どうして、子どもが生まれたばかりの私に同居を勧めたのだろう。
感情のままにLINEを送った。
責める言葉を並べた。
今思えば、母もまた不安だったのだと思う。
でもあのときの私は、誰かのせいにしなければ立っていられなかった。
骨折も、脳梗塞も、まだ先の話。
でも、いちばん余裕がなかったのは、
この“動ける認知症”のころだったのかもしれない。
私は、認知症をなめていた。
この記事は「なめていた私のダブルケア」第2話です。
◀第1話
1|子どもが幸せでなくなるなら、介護はやらないと思っていた
第3話▶
3|食べ続ける祖母と、止める私
シリーズ一覧はこちら
なめていた私のダブルケア
在宅介護の臭い対策についての投稿はこちら▶
在宅介護の臭い問題|オムツ・部屋の臭い対策で本当に効果があったもの

